2023年12月
主任司祭 アントニオ・カマチョ
私たちは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる。
今年も待降節が始まります。今年は何か違うでしょうか。現在の状況を見ると、あちらこちらで戦争が起きています。何か支援するべきでしょうか?何もしなくてもよいのでしょうか?
この待降節、私たちには何か希望があるでしょうか?私たちの希望は誰なのでしょう?
さて、公会議は「平和の本質」について次のように述べています。「平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生じるものでもない。平和を正義のわざと定義することは正しい。平和とは、人間社会の創立者である神によって、社会の中に 刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実現しなければならない秩序の実りである。事実、人類の共通善は、基本的には永遠の法則によって支配されるが、共通善が具体的に要求する事柄は、時の経過とともに絶えず変動する。平和は永久に獲得されたものではなく、絶えず建設すべきものである。」(現代世界憲章78 )
憲章はさらに続けます。「しかし、それだけで十分ではない。個人の善が安全に確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自発的に交流し合わなければ、地上に平和は獲得できない。他人と他国民および彼らの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために絶対必要である。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを超える。」(同上)
真の平和は、一人ひとりの超越的な人格の尊厳とその基本的人権を擁護し、互いの正義、互いの共通善を守るために、自分の損得を超えて相手に尽くす愛がなければ実現することはできないというのです。そのような愛は、原罪に傷ついた人間の力を超えるものであり、その愛がキリストによってもたらされたこと、「キリストの平和」を宣べ伝えます。正義と秩序を基調とした世界の在り方です。
教会が目指すのはあくまで「平和の論理」です。だから、「平和は、単に戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持するだけでもない。平和は正義の業であり、愛の実りである」という公会議の言葉は、文字通り、重く受け止めなければならないと思います。