聖堂のご案内(主聖堂側面)

天の元后なる聖母のイコン

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祭壇左に飾られた「天の元后なる聖母」のイコン

主聖堂側面に飾られている聖母マリアのイコンは、当教会の創立者、ヒルデブランド・ヤイゼル神父様がこの聖堂の完成にあたり相応しい聖母マリアの御絵を飾りたいと願い、ニューヨークのフォーダム大学内にあるロシア・センターと呼ばれるイエズス会が運営する施設より譲り受けたものとなります。

ヒルデブランド神父様はこの近代的な聖堂にどのような御絵が相応しいか大いに悩み、伝統的で歴史的なイコンから、現代の偉大な芸術家の現代的な作品まで幅広く検討し、教会の精神に適い、目黒教会の信徒たちの信仰の助けとなる作品を探し求めました。日本国内で見つけることはできず、アメリカでも方々を巡り、ロシア系やギリシャ系の教会、古美術の店など思い当たる場所はどこでも足を運んでみたものの、なかなか見つけることができませんでした。

ある日、御絵探しの協力を頼んでいた知人からフォーダム大学のロシア・センターを訪ねてみるよう連絡を受けたヒルデブランド神父様は、彼に連れられて真夏の暑い日にこのロシア・センターまで行きました。二人が暑さで半分死んだようになりながらロシア・センターのドアまで辿り着くと、入口にはロシア髭を生やした1人の神父様が立っていて扉を開けてくれました。ヒルデブランド神父様が東京から来たと伝えると、彼も長いこと日本に住んでいたと言いました。彼はフォン・ボック神父様という方で、ロシア皇帝最後のバチカン教皇庁駐在大使で、ロシア革命後、日本で大学教授をされていたのです。その後イエズス会の司祭となりロシア・カトリック典礼に加わっていました。ボック神父様に東京の教会の為に古いビザンティン様式の聖母の御絵を探していることを伝えると「ここには売れるものはない」と直ちに断られてしまいました。仕方なく諦めて帰ろうとした際に、ヒルデブランド神父様を連れて来てくれた知人がロシア様式の聖堂を見たことがないので見せて欲しいと願い、聖堂を案内してもらうこととなりました。

その聖堂にはいかにもロシアの教会らしい、数多くのイコンが飾られていました。その中でも特に3点のイコンが美しく、ヒルデブランド神父様の目を惹きました。ボック神父様が「どれも売ることはできない。院長が不在だから私は何も決められない。」と言うと、ヒルデブランド神父様の知人が「それでは院長が戻って来てからまた訪ねます。」ともう一度訪問する約束をしたのです。ヒルデブランド神父様と知人は二人で院長と会うまでの三日間、主が必要なものを与えてくださるよう祈りました。

そして院長と会う約束をしていた金曜日、ロシア・センターより院長がまだ戻って来られないとの連絡が入り、約束は翌日の土曜日に変更になりました。「聖母マリアの土曜日」と重なったため、ヒルデブランド神父様は朝の内にミサをたて、聖母に「東京の真ん中のわたしたちの教会の為にお助けください」と心から祈りました。ミサの後ロシア・センターに向かい、約束通り院長と会って話をすることができました。院長はとても親しみやすい方で、古いビザンティンのイコンが見つけられるようできる限り協力しましょうと言ってくれました。そこで、ヒルデブランド神父様が自分が求めているイコンがどのようなものかを説明する為に、先日聖堂で見た3点のイコンを指し示すと、院長は「この3つはここにあるものの中で最も古く、価値のあるものです。」と驚きになりました。2つは贈り物で他所へ譲ることはできないとのことで、もう1つは何週間か前に買い取ってきたばかりのもので、3つの内で最も古いギリシャのイコンであるとのことでした。

ヒルデブランド神父様が「院長様、もし私がその代価を差し上げたら譲ってくださいますか?これが東京で聖母マリアのシュライン(拝所)となるということをよく憶えておいてください。」と伝えると、院長は「これにそっくりのものを見つけましょう。」と繰り返しました。すると、隣にいたボック神父様が「東京にこんなシュラインがあったらどんなに良いかと思います。」と院長に囁いたのです。そして院長は何度も考え直していました。ヒルデブランド神父様はその時心の中で「マリア様、さああなたにやって頂く時がきました。どうぞお願い致します。」と祈りました。

院長は「ここには本当に原型のイコンと言えるものはほんの少ししかありません」と言いながら、それを壁から取り降ろし、ボック神父様と一緒に裏に書いてある説明を読もうとしました。説明は古い木にナイフで彫ってあり、簡単には判読できませんでした。ヒルデブランド神父様は「私と東京の信者たちが本当のシュラインをつくるのを助けてください。あなたがたの家が主の特別なお恵みを受けることができますように。」と伝えると、院長はヒルデブランド神父様の顔を見て、もう一度御絵に目を向け、少しためらってからヒルデブランド神父様に手渡しました。「さあ、東京へお持ちください。」

このイコンがよそにもらわれていくと聞きつけてロシア・センターにいたほとんどのロシア人達、司祭や修道士達が見送りに集まってきました。彼らは深い尊敬を持ってイコンに接吻し、一人の年老いた修道士は涙を浮かべながらも日本でこのイコンの為のシュラインができることを喜んでくれました。ヒルデブランド神父様は感謝と喜びのうちに御絵を抱えてロシア・センターを後にしました。

3週間後シカゴで友人の集まりに出席したヒルデブランド神父様がイコンを手に入れたいきさつを話したところ、一人の婦人がロシア・センターに差し上げる代金をご寄付くださり、無事にロシア・センターがイコンを入手した際に支払った代価をお返しすることができました。

ヒルデブランド神父様は日本に戻るまでのアメリカ滞在期間中も帰国の途もずっとこの御絵を膝の上において大切に持ち帰りました。

1956年6月3日付の信徒全員に向けたお知らせの中でヒルデブランド神父様はこのいきさつを記し、最後にこう締めくくっています。

「もう決して他人には渡しません。これからは、貴方がたの物です。どうぞ、貴方がたも手離さないように。」

聖アンセルモのご絵

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祭壇右に飾られた聖アンセルモのご絵

聖アンセルモ(アンセルムス)司教教会博士(1033年 – 1109年4月21日)は、カンタベリーの大司教であり、神学者、哲学者として神という存在を学術的に捉えようとした人物で、「スコラ学の父」と呼ばれています。当教会は聖アンセルモを守護聖人とし、彼の名前を教会名に戴いています。

聖アンセルモについて

神聖ローマ帝国治下のブルグント王国(アルル王国)の都市アオスタ(現在のフランスとスイス国境に近いイタリアのヴァッレ・ダオスタ州)の貴族の家に生まれたアンセルモは父に政治家となることを期待されたが、母の敬虔な信仰に大きな影響を受け修道院に入ることを希望。父から了承を得られることはできず、失望から心因性の病を患った。病気から回復するも母が亡くなり、父との確執はますます深まる。1056年(1057年?)に家を出て、ブルグントとフランスを歩いてまわり、ノルマンディーにあるル・ベック修道院の副院長ランフランクスの高名を聞きつけ、同修道院に行き着く。そこで修道士として生きることを決意したアンセルモは、修道院の副院長に選出され、その後15年間その任務を務め、1078年には修道院長となる。この頃、最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)や、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』といった著作を著した。

アンセルモはその後、聖職者叙任権闘争の最中でカンタベリー大司教となる。イギリス国王ウィリアム2世からの財産の贈呈要求などの聖職売買や聖職者叙任権の主張を頑なに拒み、国王の許可を得ないままローマへ渡り大司教に叙任する。国王はアンセルモがイギリスを離れている間に大司教管区の財産を差し押さえ、ウィリアム2世の死後王位に就いたヘンリー1世もアンセルモをイギリス国外へ追放。ウエストミンスター合意で国王が叙任権放棄を約束し、ようやくカンタベリーに戻ったアンセルモは死ぬまでの2年間を大司教としての職務に費やした。

1109年4月21日に帰天。1494年列聖。1720年には学識に優れた聖人に贈られる「教会博士」の称号を得た。

聖アンセルモの神の理解は以下の通りである。
(以下ウィキペディアより引用)

1. 神はそれ以上大きなものがないような存在である。
2. 一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。
3. もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。
4. そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。

この証明は、後にイマヌエル・カントによって存在論的な神の存在証明と呼ばれ、ルネ・デカルトなど中世以降の哲学者にも大きな影響を与えたと言われる(歴史上、神学者や哲学者によって、神の存在証明は多くの側面から検討された。)

十字架の道行き

十字架の道行き

カトリック教会の聖堂には通常、キリストの死刑の宣告から十字架上の死までを14の留 (場面)に分けて一つひとつをたどりながら黙想し、祈るための「十字架の道行き」と呼ばれる絵画などが飾られています。当教会のものはアントニン・レーモンドの夫人、ノエミ・レーモンド作で、手の表情でキリストの受難までの道筋を表わしています。

十字架の道行きの歴史と由来

死刑の宣告を受けたイエスが十字架の上で亡くなられ墓に葬られるまでの道程で、キリスト教西方教会の大変愛されている数少ない「信心業」です。ご生涯の最後の歩みは「救いのご計画」の完全な実現への一歩として、言語に絶する厳しい苦難の道でした。
エルサレムの教会は、すでに2世紀頃からキリストの墓が発掘されたあたりを「聖なる場所」として注目し中世期後半にアシジのフランシスコたちは主の十字架にたいする思いを共有したいと願っていました。
1233年からは「聖なる場所」にフランシスコ小さな兄弟会のメンバーが、キリストの受難に対する信心を広める使命を感じ常駐し、13世紀終わり頃には「十字架の道行き」と呼ばれ幾つかの標識が立てられていました。
エルサレムに遠征した「十字軍」は聖地のさまざまな場所を描いた絵を持ち帰り教会堂に飾り、これによってキリストの受難にたいする信心が広まってゆきした。遠いエルサレムに行くことのかなわない信徒たちは、絵の前で祈ることで巡礼の代わりとし、このような信心は「小さなエルサレムの信心」と呼ばれました。
18世紀には「十字架の道行きの説教師」と呼ばれるレオナルドが20年の歳月をかけ572箇所に「道行き」を設置したと伝えられています。「留」の数はさまざまでしたが、1731年に教皇クレメンス12世により14留に定められました。最近はイエスの復活を表す15留を加えることが勧められています。
「留」はラテン語のstatio(立つ場所)を語源とします。

各留の説明

※以下、画像をクリックすると各留の解説が読めます。
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(各画像下のカッコ内はイエス・キリストの「手」がわたしたちの「手本」、「手引き」となると捉えたヒルデブランド神父様による言葉です。)

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